| 2006.11.26 無題 |
背負ったモノを自分で降ろすのは、人生最大のルール違反である。背負ったモノを永久に降ろしたくなくとも、降ろさなくてはならない時が必ず来る。それまでは大事に背負って行くのである。その荷物を人生の業と呼ぶのである。 ・・・11.25東田さんの日記より 最近、マスコミを賑わせている「いじめ問題」に端を発し死に急ぐ若者たちに対し、 東田さんは怒りを滲ませながら下のように激を飛ばしておられる。 「まだ十代のケツの青い若造が、人生を悟ったようにクソ生意気に何を自殺しとんねん。もっと強くなれ。今の大人は最低だが、死んだら本当に君らの負けである。大人や今の世の中を見返してやれ。死んで君らを可哀想と泣いてくれるのは一時だけのこと。みんなすぐに君らのことなど忘れて、何も世の中は変わらない。生きていれば必ず楽しいこともあるし、もっと効率的で気分がスカッとする仕返しも出来る。死んだら、終わりである。死んだら、神も仏もない。そのぐらい想像出来るだろう。脳が停止して全てが無になる。そのぐらい想像しろ。 」 私達が若かった頃も「今の若いやつは・・・・・」とよく言われた。そう言われるのがとっても嫌だった。でもあえて言わせてもらう。「本当に今の若いやつは想像力がない。」 「君が今直面しているこのいやな事が一生続くと思うか?続く訳ないやろ!」 「今、目の前の困難から目をそらすな!逃げるな!それは君らが大人になった時、本物の困難に遭遇した時のための訓練なんやから。」 人間生きていく上でいやな事は多い、楽しいことよりもいやなことの方が多い。しかし、自分だけがなんで?・・・と思たらあかん。皆同じや。あんただけやない。皆、何か背負とんや。でも、そんな嫌な事が多い中で、たまに「ああ生きていてよかった。」と心底思えるときがある。少ないけれど必ずある。俺はまた訪れてくれるであろうその「ああ生きとって良かった!」のために今を一所懸命生きる。 最後に言うとくけど「生きとる」と「生きる」とは全然ちゃうんやからな、 目の前に立ちはだかるいやな事は君等が「生きる」ことの意味を知るための貴重な機会なんや、 絶対逃げるな!それを乗り越えた時、君の命の根は間違いなく太く強くなっているんやから。 |
| 2005.10.13(THU) |
| 本年初雲海。 |
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| 建部山(丹後富士).....2005.10.08 |
| 今週の定休日は、先週に引き続き山登りを敢行した。 今回は以前から、一度は登ってみたいと思っていた『建部山』に挑戦である。 この山は、1300年代中葉より、丹後国の守護、名族一色氏の 居城として山城が築かれた場所である。 一色氏は同時に、足利幕府の四職家の一つとして権勢を奮い、 次第に最盛期を迎える。 足利幕府衰退後は、織田信長の越前朝倉攻めに兵を送ったりしたが、 足利15代将軍『義昭』を匿い、信長の逆鱗に触れる。 1579年(天正7)に信長の命を受けた細川藤孝が丹後を攻撃、 各地で敗れた一色軍は建部山城に篭城するが細川軍の猛攻の前に崩壊、 『一色軍記』によれば同じ舞鶴市にあった中山城に逃亡したが、 中山城主・中山幸兵衛の裏切りにより一色義通は自害した。 その後を義道の子の一色義定や、弟の一色義清が継いで 織田軍と懸命に戦ったが、最終的には1582年に両者も殺されて、 足利泰氏の直系、名族一色氏はここに滅亡する。 実際に山に登ってみると、土塁らしき遺構が一部残っている。 建部山自体が標高315メートルと周囲の山よりもやや高く、 同時に「田辺富士」「丹後富士」と呼ばれる優美な形をした山であり、 加えて山頂から眺める舞鶴湾、振り返れば 由良川・由良が岳を経て遠く天の橋立も望めるなど景色が絶景である。 また、山頂には旧陸軍の砲台跡なども残っており、 まさに・・・・・兵どもの夢の後・・・・・そのものである。 ![]() |
| 久しぶりの愛宕山・・・・・・2005.10.01 |
| 先日の定休日、子供のころよく登った『愛宕さん』に登ってみた。 秋晴れ快晴の絶好の日和である。かれこれ30数年ぶりだろうか、 上り口の円隆寺の参道を過ぎ、両脇に墓地をみながら最初の難所、 石段を登る。ハア〜ハア〜ヒイ〜ヒイ〜、年齢を痛感する瞬間である。 当時の様子とはかなり変わっていた。 山の中腹あたりにあった赤土山(通称ハゲヤマ)、 見晴らしがとてもよく、当時お尻を真っ赤にしてよく遊んだ場所だったが、 跡形も無くよく植林され杉林となっていた。 さらに頂上に向かって進む。 人がようやくすれ違えるくらいの急登板の山道をしばらく行くと 頂上にある愛宕権現山門へと続く石段が最後に立ちはだかる。 ようやく頂上にたどり着く。 これまた30数年前とは勝手が違う。 当時膝丈くらいしかなかった植林直後の杉たちがよく育っている。 おかげで一望できるはずだった舞鶴湾は杉木立に遮られ、 眺望は期待はずれ。残念! 愛宕山登り、子供のころを思い出しながら ちょっぴりノスタルジックなひとときであった。 ・・・・・・・が 明日の足腰がとっても心配であった。 ![]() |
| 24hoursから10日余・・・・・・2005.09.09 |
| 2005.08.28.(SUN)、感動的な映像が流された。 日テレの24時間テレビ・愛は地球を救う・ ▽木村拓哉が伝える…奇跡のシンガーとは?のことである。 ![]() 上の写真、向かって右側の男性が”奇跡のシンガー”東田 寿和さんである。 東田さんは1999年上咽頭悪性腫瘍を発症され余命半年の告知をされる。 その後一度入院され、放射線治療と抗がん剤治療を受けられました。 (この間の心の葛藤や医療現場での矛盾、患者の弱い立場、 ガンという病気に対する東田さんなりの「おとしまえ」のつけかた等々 赤裸々に綴られたエッセイ集「西へ向かう」も感動的な一冊です。) 治療の甲斐あってか、奇跡的に病巣は一旦姿を消します。 しかし、運悪くその後再発・・・・・・。 東田さんはここで重大な決断を下します。 一回目の入院時の医療現場に対する不信感、 また、自分なりの「おとしまえのつけ方」 つまり、ガンという病気に対峙する姿勢を既に決意されていた東田さんは 一切の治療行為を行わない。 家族と居られる状態であれば家族と過ごしたい。 そして、大好きなフォークソングを力いっぱい唄いたい。・・・・と、 現在、東田さんの病状はガンの病巣は残ってはいるものの その進行は止まっている状況のようです。 番組の中でも紹介された、 「遺言」テープには思わず声が出るくらい胸が詰まった。 特に奥様に対する「申し訳ない。」と 子供さんに対する「なんで生きているんだろう?と解らないような 人生だけは生きないで欲しい。」 この二つには参った。 嫁はんと二人の子供を前に思わず落涙寸前であった 同時に、俺には言えんやろなあと思った。 何故言えないのか、その違いは、木村拓哉氏が番組の中で言っていた 「表情に甘えがない」東田さんと そうでない私との差のように思う。 私は、「戦うおやじの応援団」というネット上のフォーラムで 東田さんのことを知り、 東田さんのHPを隅々まで読むうちに 東田さんの不思議な魅力にとりつかれた一人です。 何事に対しても、真摯に取り組まれ。 自分に厳しく、他人に対してもちょっぴり厳しい。 そんな東田さんの生き方を見ていると、 この人は少なくともあと30年くらいは 「人生はおもしろいよと」呟きながら がん細胞と一緒に悠々と生きるんやないかなあと 確信めいたものを感じずにはいられません。 |
| 上野家・・・・・・2005.08.20 |
| 先日の木曜定休日、奥さまと子連れで加佐地区 (昨年の大風23号でバスが水没した地域)の『大庄屋上野家』へ行ってみた。 上野家は、江戸時代後期から田辺藩(現:舞鶴市)の八大庄屋の一つとして、 代々庄屋を務めた旧家である。 母屋を中心に長屋、馬屋、数棟の土蔵群からなっている。 屋敷の正面から東側面にかけて長大な塀がめぐらされ、 その中に客人をもてなす格式高い書院庭園がある。 この庭園は書院造りの客の間(下写真)より一望できる。 また、東北後方には屋敷神(荒神さん)が祀られている。 母屋(下写真)は茅葺で桟瓦葺下屋庇が四週する。 母屋に入ってみると、ひんやりと気持ちいい。 外は真夏の気温35度。 茅葺屋根の威力だろう。空調設備などなんにもない、 否、クーラーなんかの冷気より数段気持ちいい。 団塊の世代がリタイヤ後は田舎暮らしに憧れているという。 そんな気持ちがよくわかる。 こんな所にくると私も、余生は田舎でゆったり暮らしたいと思った。 ゴールはまだまだ先だが・・・・・・・・・・、 ![]() |
| 明徳義塾高校問題について・・・・・、2005.08.07 |
| 明徳義塾高校が、第87回全国高校野球選手権大会・高知代表としての出場 を辞退した。 一番の被害者は勿論選手達である。 そして一番の問題は、 事実をあるがままに公表せず、隠避に走った事にあると思う。 7/09 2年生3人、1年生8人が寮内のボイラー室で喫煙してたことが発覚 7/15 3年生4人、2年生2人が1年生に継続的に暴行してたことが発覚 もし、7/15の時点で事実を高野連に報告(加盟校は、審議を必要とする事案 が発生した際は、速やかに県高野連に報告をする義務を有する)をし、 後は高野連のお沙汰を待つということにしていたら、当時者の出場停止だけで 済んだかもしれない。 少し前の”雪印”、最近では”三菱自動車”等など企業や団体の隠蔽体質が 白日の下にさらされどのような結果を招いたか、皆さんご存知の通りである。 隠蔽工作などやった所で隠しとおせるものではないのである。 隠しとおせるならやってもいい事でも勿論ない。 ましてや、教育の現場では絶対にやってはいけないことやと思う。 今回の事件を踏まえて、 何処が悪かったのかを検証しない限り また不幸な高校球児が出てくるように思う。 何処が悪かったか・・・、 「事実を隠そうとした事」 「何故事実を隠そうとした・・・背景」 ここの所を検証し、改善する必要があるように思う。 |
| 07.22のつづきではありませんが・・・2005.07.26 |
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2005年4月16日、北海道釧路市内の病院で、 |
| 07.22のつづきではありませんが・・・2005.07.25 |
| 昨夜、NHKでオン・エアーされたサンデースポーツのインサイドは良かった。 18日のWBC世界Sフライ級タイトルマッチで対戦した徳山 昌守と川島 勝重 の試合当日までのトレーニング、心の葛藤、試合後のインタビューなどが ドキュメンタリータッチで描かれていた。 男の意地とプライドをかけた戦いだったのではあるだろうけれど、 究極、それは相手との戦いではなく実は壮絶な”自分との戦い”であった。 前日の計量の際、リミット一杯で通過した徳山が言った「よっしゃあ!自分との 戦いは完勝や。」また、試合前鶴ヶ丘八幡宮に参拝した川島は「勝たして下さい とはお願いしませんでした。応援して下さいとだけお願いしました。 勝たして下さいはずるいじゃないですか。」・・・と。 結果は、12Rフルラウンドの戦いとなり、判定で徳山の勝利となった。 しかし、試合後の二人のコメントが実に気持ちよかった。 川島「徳山という選手と戦っててとても楽しかった。徳山と12R戦えた事が嬉しい。」 徳山「前回の試合以降”川島”という大きな壁が・・・、この壁をよじ登るんや という思いだけでやってきた。けど、今は、川島選手とは”一緒に酒が飲みたい そうして、いろんなことをいっぱい、いっぱい、彼と話したい。」 自分との戦いに納得し、相互に認め合った二人だからこそ発せられる言葉。 ええなあと思う。 自分に妥協ばっかししとる私には到底及ばない域である。 |
| ある日ボクは・・・2005.0722 |
| ある日僕は、朝粥を、薄味の鰹風味ふりかけを少しだけかけて食した。 その日のお昼は、鮭風味のおかゆだった。仕事を終え帰宅し、食した夕食は、 ポタージュスープ一杯と少しの黒ビールだけだった。 翌日、窓際のカウンターに座らされた僕は、朝の8時40分から10分毎に コップ一杯のポカリスウェトみたいな味のする”下剤”を粛々と3時間30分 飲み続けた。その間、排泄回数15回。 最後は、最早大便ではなかった。 ほとんど水である。その日の午後2時過ぎ、それは始まった。 ・・・・・・・・・・・・つづく |
| 友人の日記・・・2005.07.04 |
| 私の友人が、HPで公開している日記に書かれてあった・・・。 「写真をサイトにアップするというのは、本当に便利である。 パソコンがネットにさえ繋がっていれば、参加者全員、見ることが出来るし、 必要な人は自由に取り込むことも出来る。昔なら、写真の必要な方を募り、 要望のあった写真を焼き増しして送っていたが、その手間がまったく要らない。 こんな時、少し悔しいが、「インターネットは便利だ」と認めざるを得ない。」 確かにそのとおりです。今起こったことでもデジカメでパシャ!サイトにアップ 地球の裏側でも、どこでもパソコンがネットに繋がっていれば誰でも見ること が出来る。 しかしであります。見るだけでいいものならそれでいいとは思うのですが、 自分の大切な思い出や記念の画像、二度と訪れない歴史の一瞬一瞬を記録 した画像、中でも子供の成長記録など特にです!必ず写真にして残して下さい 。ネ!!! 何故って、こちら↓を見てちょう〜だい。 http://www.1484n.com/netprint/2dp.htm デジグラフィーほど危ういものはありません。 皆さん!デジカメで撮った画像はちゃ〜んと寫眞にしましょ! |
| 間延びしましたが5.12のつづき・・・2005.06.28 |
| 5.12の日記の続きになるが、 さすが、ジャーナリストは凄いと思った。 JR福知山線の列車事故に関して地元新聞のコラムに、江川 紹子さん の寄稿『余裕の無い社会の縮図』があった。そこにはまさに私が言いた かったことが100%網羅されていた。以下、その記事を抜粋させて頂く。 「いっぱいいっぱいなんです。」自身の能力や許容量の限界に達して、 全くゆとりの無い精神状況や生活状態のことだ。「いっぱいいっぱい」の 人は、周囲を見回したり、少し先のことを考える余裕もなくなる。今の自分 のことだけで頭が一杯になりがちだ。それを象徴するのが、ダイヤの組み 方。脱線した電車は、「余裕時分=ゼロ」に設定されていた。(必要不可 欠な「あそび」が無かったのである。)という。遅れを吸収する時間が一切 無い。予想外の出来事が起こるのが、機械(=敢えてIT=Cp)ならぬ人 々の暮らしや社会の常であるというのに。・・・中略・・・ 運転士達もいっぱいいっぱい。日勤教育を受けることを考えただけでい っぱいいっぱい。事故現場を救助活動せずに立ち去ったJRの社員たち も自分の立場を守るだけでいっぱいいっぱい。・・・中略・・・ 私自身、電車が少しでも遅れると間に合わないようなギリギリの予定を 組んでしまうことがある。そんな時は数分の遅れでもイライラする。鉄道に 限らずあらゆるものが便利になり、スピードアップされるほど、生活や気持 ちはせわしくなり、「ゆとり」はむしろ減っていく。 今回の事故は、そんな私たちの「いっぱいいっぱい」な生活にそれでい いの?と問い掛けているように思う。 何の為の便利さか、人や企業にとって一番大事なものは何か、あらため て考えたい。 |
| 久ぶりの日記・・・2005.05.12 |
| IT!IT!IT!と騒ぎ出してもう何年になるだろか?確かにIT技術のおかげで便利になった。ここ舞鶴にいながら、オハイオのギターショップからメリルのギターを注文することだってできる。お気に入りの曲をダウンロードしてすぐ聞くことも可能である。知りたい情報を瞬時にして手に入れるこだってOK! しかしながら......shikashinagara.......なにかがおかしい。 余裕がなさ過ぎるのである。所謂”あそび”が無いのである。自動車のハンドルのあの”あそび”のことである。 |
| 私にとってギターとは!?(watasino shumidesu.) 2003.03.02 |
| 私が初めて自分のものとしてギターを手に入れたのは中学一年生(1970)の時でした。商売をしていた関係で自宅は商店街の中にありました。もちろん、その商店街には楽器屋さんもありました。最も我家に近い楽器屋の店の奥に一台だけフォークギターが吊るしてあり他のギターは総てガットギターでした。 当時のギターに関する知識は、ガットギター(ナイロンの弦で弦高が高く、ネックの幅が広いギター=押弦しづらい。3歳年上の姉が所有していたので、所謂、セーハがし辛いのは経験済みでした。)とフォークギター(金属の弦で弦高が低くネックの幅が狭い=セーハし易い)の二種類がある。程度のものでした。 13歳の少年にとってその楽器店に吊るしてあるただ一本のフォークギターは自分にとってこの世で唯一無二の「ネックの幅の狭い、弦高の低い、セーハし易いギター」と思い込むのにさほど時間は必要ありませんでした。まさしく「一目惚れ」というやつです。 それからとゆうもの、寝ても覚めても毎日毎日・・・毎日。「なあなあ!お母さん紀田楽器(かの楽器店さん)にあるギター買うてえなあ」の連発でした。 お袋が、この息子を黙らすにはあのギターを与えるしかほかに方法はないと悟るのにこれまたさほど時間は必要ありませんでした。 一ヶ月後には私の部屋に”かのギター”は鎮座していたのでありました。 サウンドホールから覗くラベルには”KASUGA FOLK GUITAR"とだけ書いてあります。今思うと、型番も品番も、もちろんシリアルナンバーもなーんにもなかったと思います。 毎日毎日弾きました。 「友よ」、「悲しくてやりきれない」、「戦争を知らない子供達」、「血まみれの鳩」…、そうこうしておりますと、あの加藤和彦大先生が「はれんちこんさあと」で使用したギターのなかに12弦ギターなるものがあるという情報を入手した少年は「当世今様民謡大温習会」なる30cmLPを手に入れその「シャリ〜ン、ジャラ〜ン、」鈴鳴りとはこのことだあ!というなんともいえない12弦ギターの音色の虜になったのでありました。 「お母さん明日から弁当いらんは、学校でパン3ヶ牛乳1本 買うさかいに毎日150円おっけ(頂戴の意)」 実際にはパンを2ヶ食し、牛乳は飲んだり飲まなかったりで毎日30円〜50円貯蓄していったのでありました。こんな生活を3ヶ月ほど続け、お小遣いと併せて5,000円くらい貯め、冬休みに家業の手伝い(家内制アルバイト)をし年明けのお年玉と春日のギターを処分したしお金とを併せて2万円の軍資金を手に入れたのでありました。 1972年1月、セミソフトケース付き18,000円の品番も、型番もぜ〜んぜん覚えていないのですがヤマハの12弦ギターがKASUGAに代わって私の愛器となりました。 その時は本当にそう思ったのですが、「このギターは一生もんだ、だって18,000円のギターだよ!」本当にこのギターが僕にとって最後のギターになるだろうと信じて疑いませんでした。このギターと一緒に文化祭にも出演したし、大好きだった「久美ちゃん」のお誕生日のプレゼントに渡した弾き語りのテープを録音したのもこのギターだったし・・・。 しかし、しかし、その信じて疑わなかった愛器とのお別れは2年後にやってまいります。 忘れもしません高校1年の秋、「浪江が50,000円もするギター買うたらしいで、 なんでもS.Yairiいうて”陽水”が使てるのと一緒のメーカーのやそうや」というとんでもない情報が耳に飛び込んできたのでありました。 実際にそのギターを手にした時「ひょっとしたらMartinを初めて手にした時以上の衝撃」やったんやないかなあと今でも覚えとります。なんともいえないプリプリ感、充実した低音の響き、シャリーんという高温の響きS.Yairiって言うメーカーは、本当に完成度の高いギターをつくっていたんだなあと今でも本当にそう思いますね。 このあとは・・・書かなくてもだいたいご想像いただけるかと思います。 前回ヤマハを手に入れた時とほとんど同じ手法で新たなギターを手に入れます。ただ、諸事情でS.Yairiは、手に入れることは出来ず、Morris W-40というMartin D-41もどきの4万円のギターを購入したのでありました。1974年1月のことでした。 しかし、このギターには大変な悲劇が待ち受けていたのでありました。 購入して3日目くらいだったと思います。S.Yairiの浪江が家に遊びに来たのです。 「ギター買うたんやってなあ、見せて。」 「ええで、あがれや」ということで 彼にギターを預けると、2−3曲陽水の曲をやり終えたあと、ギターをケース(シェルタイプ)にしまおうとしたその瞬間「こーん」という忘れたくても忘れられないあの素晴らしいボディ鳴り! 彼がギターを平面(寝かせた)状態でケースに入れようとした時ケースの蓋が閉まり、止め金具のあの尖った部分がなんとギタートップになんの抵抗も無く100%まともに落ち、バウンドしたのでした。 木部まで達する打痕が2箇所、塗装膜だけの傷が2箇所購入後3日目にしてこの惨劇。思い出しても本当に泣きたくなるくらいの出来事でした。 でもこのギター、今現在も私の手元にあるんですよ。30年来の付き合いになります。こうなったら本当に手放せないですね。この30年間の「酸いも甘い」もみ〜んな知っている。苦楽を共にしてきたほんと、親友であり、戦友であり、兄弟みたいなもんですね。 モーリス W-40 トップ:スプルース単板、サイド:ハカランダ合板、バック3p:ハカランダ合板センターメイプル 1973”寺田楽器製。 以降1999年製 HD-28VRを手にするまでギター遍歴は一時休止となります。 結婚をして、人の親となって生活が少し落ち着いてきたとき「もう一度ギターやりたいな」どうせやるならギター小僧時代からの夢のまた夢、憧れの「Martin買うたろかい!」と思ったのが数年前のことでした。 でも、そうは思ったものの若年来の「過度の喫煙」がたたったのか、唄をうたうレベルでの声が思うように出せなくなり気持ちよう唄も歌えへんのに今更何十万もするギター買うてどないすんねん!?やっぱりやあめた・・・。 ・・・と思っていた私に衝撃のサウンドが降り注いだのでありました。 そうなんです”アコギ魂!”覚醒の一番大きなきっかけとなったのはEric師匠のアンプラグドでした。これはほんとに強烈でした。 アコースティックギターって弾き手によってはこんなに表現力が膨らむんだ! アコギの新しい世界を思い知らされました。 以来ここ数年間はEric 師匠のアンプラグドのカバーに明け暮れている毎日です。 目標は、自作自演本人プロデュースによるCDを作製し自分の葬儀の「粗供養」につかいたいな・・・と思っています。 現世で一方ならぬお世話になった方々との最後のお別れに「本日は、お足元がお悪いか、お悪くないか私には知る由もございませんが、ご多忙中にも関わりませず、森脇弘光儀告別記念音楽会にご参列下さいまして誠にありがとうございます。・・・・・・」てな感じえ始まるCDをお渡しできたらええなあなんて思っております。(そんな気持ち悪いもんいらん!!というお声もございますが・・。) |